2011・3・11日に起きた東日本大震災におけるHS神戸とサポートチームの活動報告です


by aoesupport

やっさん岩手~宮城活動報告3

3日目の朝、久慈市を出発し他の市町村のボランティアセンターをまわり、
今後の活動を考えるための視察をすることにしました。
まずは野田村のとなりの普代村では一人の死者も出さなかった15mの堤防を
見学しました。10mで十分だという村人の意見に負けずに、15mの堤防を
建設した村長さんは備えあれば憂い無しということの代表のように思えます。
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次の田野畑村は、町の機能は海岸線から離れた山の上にまとめていて無事でしたが、
海岸線の住宅街や漁業関係者の方々に多くの被害が出ています。
ここで感じたことは、今回の震災には生死や被害の大小を分けるラインがある
ということです。このラインが今後の復興にも差をつけてしまいます。
それがはっきりとしているために、悲しみがとまらなくなります。
なんで、どうして、誰が決めたのか、そこにラインがあるのか・・・
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田野畑村役場であいさつをしましたが、基本的にボランティアセンターは
設置しておらず、復興も役場中心で進められる村のようでした。
その後は、いよいよ被害の大きな宮古市田老地区に入ります。
ここから、私の感情も抑えられなくなってきました。
海岸線に沿う人口の多い街が完全に破壊されています。
その風景をトラックで進みながら出てくる言葉は、
「ふざけるな、こんちくしょう、なんでそこまでやるんだ。ちくしょう」
戦争の体験はありませんが、まさに自然の攻撃に負けたこの被害状況は
何かに対して向けられる怒りを生み出しました。負けてたまるか!


宮古市港湾部の4月23日、工事現場ではありません。

宮古市は大きいためにボランティアセンターも複数必要だということで、
田老地区にもボラセンができていましたが、宿泊場所などがないため
県外ボラは受け入れにくそうでした。同じように、宮古市のボラセンでも
基本宿泊などは各自確保してもらい、活動していただければという話でした。
職員さんの一人が、大学生の活動であれば避難所で子供と遊ぶような事を
してもらいたいと言う話をしてくれました。そこで、聞いた言葉は、
避難所の完全解消までに2年はかかりますという信じがたい言葉でした。
阪神淡路でさえ仮設住宅ができて、8月には神戸でも避難所はなくなりました。
それに比べても、被害の影響の長さを考えると本当にじっくりと構えて
活動を続けることが必要だと再認識しました。
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雨がひどくなってきましたが、宮古市の次は山田町に向かいました。
この町は山田湾を囲むように家々が立ち並び、そのほとんどが壊されて
いまだに車や瓦礫が片付けられないで多く残る町でした。
こちらのボランティアセンターでは、宿泊場所を提供しており
GWも多くの予約ですでに締め切りとのことでした。
ここで、ご遺体捜索海上活動をしている男塾の佐々木さんに会い、
ステッカーを渡してきました。色々な場所に面白い人がいるものです。
山田町社協の方にもステッカーを渡しました。
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山田町を出る頃にはすっかり夜になってしまったため、宿を内陸の遠野市にとり、
大槌町・釜石市を通過しながら移動しました。電気の通っていない被災地の夜は
その破壊された風景がさらに恐ろしく感じます。橋の崩落の危険性があるため
片側交互通行という橋もありました。やはり北と南から復興が進んでいるとすると、
このあたりが中心で一番復興の遅れている場所になるかもしれません。
がけ崩れの危険性もある山道を通り、なんとか遠野市に到着しました。
遠野市などは災害支援作業従事者のために、宿泊施設を特別価格で提供している
ようで、観光どころではない感じでした。本当は観光に良い所なんですが、
この状況が経済に与える影響も大きいと思いました。

夜になっても心がざわついてよく眠れません。この日の風景は一生忘れない
ものとなりました。悲しみ・怒り・不安、被災地の人たちは毎日こんな
思いをしているのかと思うと、なんとかしなければという思いが湧き上がります。
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by aoesupport | 2011-04-24 23:50 | 活動報告など